40代からのまじめなスピリチュアル

59歳派遣主婦。自らの経験をもとに、自分の魂を知って自分だけの神に出会う方法について語ります。

これまでの概念がブチ壊される時代 それは物質から精神へと変わる予兆

f:id:godwasword:20201015205447j:plain

人生初めての在宅ワーク

私は派遣社員として6年働いていますが、働き方改革によって派遣社員にも交通費が支払われるようになりました。

それまではかなり高額な交通費を支払って通勤してたので、すごく嬉しかったです。

派遣社員に交通費が支払われる日がやって来るとは、夢にも思っていませんでしたもの。

 

早速もらったお金で6ヶ月の通勤定期券を購入した矢先に、今度はコロナ問題で突然在宅ワークが始まりました。

翌日から出社禁止となったのです。

その日のうちにアタフタと会社のパソコンをカバンに押し込んで帰宅しました。

その後一度も出社することはなく、半年以上が過ぎました。

せっかく買った定期券は一度も使わず仕舞いとなったのです。

 

まさかこのようになるとは、全く予想していませんでした。

「仕事とは会社に行くこと」

この私の概念は、わずか数ヶ月であっさり崩壊してしまいました。

 

激変する世の中

業界では生き残りをかけたサバイバルが始まりました。

コロナが一気に拍車をかけたようです。

週休3日制、週休4日制、副業OK、リストラ、合併、閉店など、

「えっ?あの企業がこんなことになったの・・・」と驚くようなニュースが毎日のように流れています。

 

大卒一括採用、終身雇用、年功序列、退職金などは昭和の遺物として、すでに消滅し始めているようですね。

 

無情にも少子高齢化はドンドン進み、介護問題、医療崩壊、働き手不足、年金崩壊、失業、貧困、自殺・・・

 

まだありますよ。

巨大地震、噴火、洪水、飢饉、異常気象・・・

 

もひとつおまけに、

世界戦争、民族対立、テロ、世界不況、病気、凶悪犯罪・・・

私たちの未来はお先真っ暗ですね。

 

物質主義から精神主義

コロナに続く暗いニュースの数々は、これまでの考え方、やり方、価値観がひっくり返る時代が到来するという予告です。

 

余談ですが、最近、昭和と現代の結婚観がまるで違うことに驚いたばかりです。

昭和の昔、「妻を働かせる夫は甲斐性なし」という考えは結構まかり通っていました。

私が結婚した昭和の終わり頃、まだ専業主婦が当たり前の時代でした。

高学歴の女性でも結婚後は仕事を辞めてどんどん家庭に入って行きました。それが当たり前だったのです。

 

ちなみに私は結婚後もずっと働いています。

共働きだった母の背中を見て育ちましたから、女はずっと働くものと思っていました。

 

現代では、男性が女性に求める結婚の条件は「共働き」ですってね。

夫の稼ぎをアテにして働かない女性は、結婚してもらえないのです。それだけ男性の収入が減ったということですね。

いやはや時代は変わりました。

 

話はそれましたが、今後は「幸福の価値観が物質から精神へとシフトする」と私は思います。

 

断捨離がブームとなったように「目に見える物」ではなく「目に見えない何か」へと人々の意識が変わってきているのではないかと思います。

 

便利で快適な生活。飢えて死ぬこともない。そこそこに満ち足りてしまったこの時代。いくら自分の回りを物で埋めてみても、幸福と感じられない

そして幸福3点セットの「健康」、「金」、「家族」は、求めても求めても逃げていく。

何だかむなしいですね。

 

物質とは肉体のこと、精神とは魂のことで、人間の中で眠らされていた魂が大変革を起こしたくてウズウズしているんですよ。

人間が目に見えない何かに「気づく」時代が近づいています。

 

何かとは「人間と神との霊的関係」についてです。

 

人間が「気づく」ためには、不幸が何よりの特効薬なのです。

ドン底の暗闇でないと光は見えませんから。

 

人間とは絶望の中で初めて神を呼び求めるものなのです。

絶体絶命のピンチの中で、

「神さま、助けて〜!!!」

 と無意識に叫んだことはありませんか?

 

実はもう時間がないのです。

この不安な時代は神からの警告なのです。

 

人間には「神との霊的関係について」知るべき重要なことがあります。 

このことについては「聖書」において説明されていますので、また書かせていただきます。

 

一人でも多くの方の魂が目を覚まし、神を思い出していただけますように。。。

 

読んで下さってありがとうございました。 

 

「おひとりさま教」のすすめ 組織も儀式も信条も教義も、何もいらない!

 

f:id:godwasword:20201015115822j:plain

宗教アレルギー

最近では「宗教」という言葉にはネガティブな印象しかありませんよね。

日本人は集団宗教アレルギーにかかってしまったのではないかと思うほどです。

もっとも人間を教祖として拝んだり、ニセモノの神様を担ぎ上げて奉ったりするようなヘンテコリンな教えがたくさんありますからねえ。

 

平成前半に某カルト教団が世間を騒がせて以来、ますます宗教という言葉が嫌われるようになったのではないでしょうか。

そのくせ日本人は、正月に神社参拝、葬式は仏教、結婚式はキリスト教、挙げ句の果てにはクリスマスとハロウィンでバカ騒ぎですから、一体どうなっているんでしょうか。

 

この世に蔓延する宗教とは、人間が自分たちの都合のいいように作った考えでしかありません。

 

宗教と組織

 「宗教」と聞くと、集団で群がるイメージがありますよね。

人間とは意志の弱い存在です。

信仰を持ち続けるためには、どうしても互いに励まし合い、戒め合う仲間が必要となるのです。

 

しかし人間は、サタンによって虚栄心、物質欲、ねたみ、うぬぼれ、軽蔑などの悪の要素が仕組まれています。そのため、人間が集まるとそこには必ず分断と対立が発生します。

 

愛を唱えるキリスト教にさえ、派閥と闘争を繰り返し、信者同士がいがみ合い殺しあうという黒く塗られた歴史を持っています。

 

カトリックだのプロテスタントだの、そこからさらに細かく派生して、どれだけ派閥を作れば気が済むのでしょうね。

  

仏教もそうです。

かつての日本では宗教がらみの集団が徒党を組み、体制に反抗して多くの犠牲者を出しました。

私の故郷は北陸ですが、上記のような「一向一揆」に結びついた浄土真宗の影響がとても強い土地柄です。各家の座敷に鎮座する仏壇の豪華さには驚かされます。

浄土真宗は東派と西派に分かれていて、それぞれの教義や流儀が違うのです。

ちなみに私の実家は東派です。

「それはどうして?」と母に尋ねたら、「知らないし興味もない」と母は一蹴しました。興味がなくて仏壇など置く意味があるのでしょうかね??

東西に分かれた理由は、開祖の跡目争いです。

欲にからんだ人間同士の争い事が、どうして教義や信条に反映されるのか。

バカバカしくて私は涙が出そうになります(笑)

  

「おひとりさま教」とは

「おひとりさま教」は、私が勝手に命名しました。

過去記事でも書きましたように、人間は魂で直接神とつながることができます。

二千年前に、イエスキリストを通してご自分と人間がアクセスできるように

神は人間を改修してくれたのです。

それまでは、決められた者しか神と交信することができなかったんです。

 

ならば、神とあなたがつながるために必要なものは何?

何も必要ないのです。

ただ、キリストを信じて受け入れるだけでOKです。

人間はそれだけで自動的に神とアクセスできるようにプログラミングされているのです。

 

あなたが、あなた自身の神とつながればいいのです。

あなた自身の神とは、あなたの魂の中に存在するのです。

そして、神とキリストはイコールなのです。

いずれあなたの魂も、神とキリストとイコールになるのです。

 

すごいことですよね。

でも考えてみれば当たり前のことなのです。

だって魂は神から生まれたのですから。

これが霊的真理であり、聖書に啓示されていることなのです。

 

これは世間が思っているような、集団組織を持ち、教会を中心に活動しているキリスト教とはちょっと違います。

 

辛い修行や呪文、護摩焚き、儀式、信条、教義、集団行動など無用です。

無用どころかそのようなことに執着する人間の心を利用してサタンが近寄ってきますよ。

 

起動力が未熟な魂に神のエールを!

とはいえ、長い間神を忘れて眠りこけていた魂には、最初から神と通信できるほどのエネルギーがありません。

まずは魂を目覚めさせて、魂が持っている力を起動させなくてはなりません。

その起動力となるのが、神が与えてくれる「聖霊」のエネルギーです。

神は求める者には喜んで与えてくださいますよ。

 

ここだけの話ですが、このエネルギーをキャッチできる人は多くはいらっしゃいません。

全世界にもごくわずかだと思いますし、そのような方はわざわざメディアに出てきて名を売るようなことは絶対になさいません。

命をかけて神に絶対服従しておられますので、このような奇跡が可能となるのです。

 

その一人が「命のクリニック」におられますので、私はこうして皆さまにおすすめしているわけです。

 

 

神との分断は悲惨な末路が待っている。ではどうすればよいのか?

 

f:id:godwasword:20201014201648j:plain

分断と対立

人間同士の分断と対立は決して今に始まったことではありません。

私たち人間は生まれながらにして、自分を主張して互いを傷付けあってしまいます。

果ては殺し合いにまでに発展することもあります。

「もっと仲良くできないものか」と誰もが願い、努力してみるのですが、できない。

私も偉そうなことは言えません。イライラしてダンナに怒鳴ってばかりです、はい・・・

 

なぜでしょうね?

 

神は「愛」

「神」の別名は「愛」です。

全てを赦し、全てを受け入れ、全てを与える「愛」です。

人間には到底真似できることではありません。

この究極の「愛」が私たち人間の生みの親なのです。

 

この「愛の神」が、「愛」を込めて創作した人間に、どうして分断や対立という要素を設定するでしょうか?

 

するはずがありません。

 

ではなぜ人間は互いに分断し合って、いがみ合うのでしょうか?

 

それは人間側の裏切りにより、神と人間が分断されてしまったからです。

 

神との分断

サタンは、元々は神の側近として御使いたちのトップに君臨する栄光の存在でした。

しかしサタンは、神が「人間」というものを創作し、しかもその人間を御使いの上位に置いたことに嫉妬して怒り、神に反逆したのです。

サタンは、神より偉くなって、全ての被造物に自分を拝ませようとしたのです。

 

そんなサタンは神の怒りによって、地獄へ叩き落とされました。

その時、サタンは悔しまぎれに神の大切にしていた人間を地獄の道連れとしたのです。

人間はまんまとサタンの策略に引っ掛かり、神を裏切ってサタン側についたというわけです。

これが聖書の創世記に書かれているアダムとイブの大失態です。

 

この瞬間から神と人間は切り離されて、サタンの波動が人間に入ってしまったのです。

この神との分断が、人間の「罪」なのです。

神から見れば、自分を捨てて離れていった我が子は、罪深い子なのです。

 

それでは神であればなぜすぐに人間をサタンの手から救済しなかったのか?

と思われるでしょうが、そこには神のお考えがあります。

 

人間の理屈などが通るはずもありません。

神が「ダメ」とおっしゃれば「ダメ」なのです。

 

神は「完全なる義」の存在なのです。

人間は「不完全な罪ある」存在なのです。

 

神は一人一人の人間をサタンの手中に置いて、試しておられるのです。

 

サタンは全ての人の中に

分断、争い、怒り、ねたみ、対立、破壊はサタンの波動です。

人間にはサタンが住みついているのです。

一人一人の中にサタンは必ずいます。

もし「サタンなど私の中にはいない!」と言うのであれば、

その人はこの世に生まれてはこないはずです。

今頃は天界で神の仕事に励んでいるはずです。

 

罪があるからこの世に生まれてくるのです。

だからと言って、この世に生まれることは罰ではありません。

神を知るチャンスを求めて、魂があの世からこの世へやって来るのです。

 

人間はサタンに支配されながら、神を見出すのです。

暗闇の中にこそ光は見えるからです。

 

神の救済窓口

神は人間を見捨てませんでした。

2千年前にイエス・キリストを仲介者として、人間のために救済窓口を与えてくれたのです。

そうでなければ、全ての人間はサタンの餌食となって地獄のどん底へと引きずり込まれます。

 

あれから2千年が経ちました。

 

人間はどんな方向に向かっていると思われますか?

イエス・キリストの救済窓口は繁盛しているでしょうか?

閑散としているのではないでしょうか?

 

人間の末路

実はこの救済窓口には期限があって、期限が過ぎると閉じられてしまうのです。

つまり神の存在を知らず、神を信じない者は、結果として抹消されてしまうのです。

造り主の神によって、魂が抹消されるのです。

魂が抹消されるとは、「あなた」が永遠に消滅してしまうことです。

魂にとってこんな恐ろしいことはないのです。

地獄の底に落ちるより恐ろしいことなのです。

 

どうすればよいのか?

まずは眠っている魂の目を開けることです。

目が覚めた魂は必ず神を思い出します。

その後は、その人が魂と共に神に近づいていくことです。

その指南書は「聖書」です。

人間のなすべきことを、神が聖書に記してくれていますので、その通りに実行すればよいのです。

 

ただ、魂の目を開けることは人間にはできません。

聖霊」という神の霊を伴ったエネルギーが必要です。

「命のクリニック」では、セラピストを通してこの聖霊のエネルギーに出会えますので、私はおすすめします。

 

 

なぜ人間は存在するのか? 不安の正体は「死」の恐怖

f:id:godwasword:20200704174959j:plain

なぜ人間は存在するのか?

この問いについては、あまりにも当たり前すぎて、深く考える人はいないと思います。

それに、人間の脳ミソでいくら考えても答えは見つからないからです。

私もそんなことは考えたこともなかったし、答えを知りたいと思ったこともありませんでした。

しかしアラ還という肉体の衰えを実感する年齢にもなれば、だんだんと人生の終着点となる「死」を意識するようになりました。

 

「死」と向き合えば向き合うほど、次のような謎が迫ってきます。

「どうせ死ぬのに、人間はなぜわざわざ生まれなければならないのか?」

「そもそも人間はなぜ存在するのだろう?」

 

私は40歳を過ぎてようやくこの答えについて知ることができ、またこれを信じるようになりました。

 

答えは「聖書」にあり

なぜ人間は存在するのか?

その答えはとてもシンプルです。

創造主である神が人間を創作したからです。

 

信じる、信じないは自由ですが、神は「聖書」にその答えを書き記しています。

このことを私の魂が教えてくれたがゆえに、もはや私には疑う余地はありません。

 

神は、ご自分の「霊」と肉体(物質)を合体させて人間を創作しました。

この霊の部分が、人間の「魂」と呼ばれる部分なのです。

ですから、魂はとても尊い存在なんですよ。神の一部ですからね。

 

では何のために?

神が、愛する我が子が欲しかったからです。

神は人間を創作して、人間との愛の交流を望まれたのです。

(神は意外にも孤独な存在なんです。人間界でも、社長や国王のようなトップに君臨する者が孤独であるように。。。)

 

神の愛とは

我が子を愛したい、可愛がりたい、何としても幸福にしてやりたい。

そして自分も子供に愛されたいし、自分を頼りにして欲しい。

親であれば、誰でもそのように思うのではないでしょうか?

 

人間は親子愛を通して、神の愛を学ぶように仕組まれていると思います。

しかし「神の愛」とは、人間が考えているよりもっともっと深くて広い、永遠の愛なのです。

 

結婚式で人間の男女が誓う「永遠の愛」などとは次元が違うのです。

だって人間はすぐに愛が冷めて離婚しちゃうでしょ。(笑)

親子の愛だって、どこまで純粋かどうか怪しいもんです。

いがみあい、殺し合う親子までいますでしょ。

 

愛の裏切り

神はありったけの愛を込めて人間を創作しました。

「神」ですよ、「神」!

万物を造って支配する万能の神ですから、神には不可能という言葉は存在しません。

「完璧=神」なのです。

その神に愛され、守られているのであれば、人間に「不幸」や「死」などという言葉は存在しないはずです。

ところがどうしたことか、私たち人間は不安と恐怖にさらされる人生を送っていますよね。

なぜかというと、悲しいことに人間はその歴史において、大失敗をやらかしてしまったからです。

これも聖書に記されていますが、早い話が人間が神を裏切ってしまったのです。

子供が親の言いつけに背いて家を出てしまったように、

全てが満ち足りた、安心、安全な大豪邸に住んでいながら、愚かな欲につられて家出をし、恐ろしい野獣のうろつく荒野に迷い混んでしまったようなものなのです。

それが今の人間の姿です。

親である神を忘れたまま、サタンの支配するこの地球において、性懲りもなく輪廻転生を繰り返しています。

 

魂の死

サタンの仕事は、人間の欲を増長させ、魂を地獄に引きずり込み、人間に神を思い出させないことなのです。

 

だから人間はサタンという野獣だらけのこの世で、不安にさいなまれるのです。

魂が不安なのです。

しかし、グルメや旅行、ショーやギャンブルなどで人間は楽しんでいるように見えます。

サタンの用意するこの「快楽」で刹那的に気をまぎらしても、根本的な神と魂の問題について追求しないから、いつまでたっても不安がついて回るのです。

不安の正体は「死」の恐怖です。

ここでいう「死」とは「肉体の死」ではなく、「魂の死」と言ったほうがいいかも知れません。

 

遺書に書かれた「ぼんやりとした不安」を抱えながら芥川龍之介は命を断ちましたが、

得体の知れない不安は人間がいくら分析してもわかるはずがありません。

 

「魂の死」とは神と完全に分離してしまうという、魂の感じる恐怖なのです。

 

神と人間は交信できるようになった

当初人間は、神と一身(心)同体だったのです。

その後人間側の裏切りにより、神と離れてしまい、人間は神と交信できなくなりました。

この時、サタンは全宇宙に届かんばかりの高笑いをしていましたよ。

 

 その後、命を捧げたイエス・キリストの仲介により、神と人間が再びアクセスできるようになりました。

この時のサタンは悔しくて歯ぎしりをしていました。

だけどサタンの必死の攻勢により、その後も人間は神を振り向こうとはしなかったのです。

  • 「神なんていない」
  • 「神なんて必要ない」
  • 「偶像を拝めば幸せになれる」

これがサタンのスローガンです。

そして今の世界があります。

日本もそのような状況になっていますよね。

 

神の愛

一方、愛する我が子に去られた神の気持ちはどうのようなものでしょう。

人間だって、親であればその気持ちがわかるのではないでしょうか?

たとえ裏切られても、かわいい我が子です。行方知れずとなった我が子の身を案じ、狂おしいほどの悲しみに悶え、いつか自分の元へ帰って来ることを信じて待つ親の心。

これが、私たち人間の親である「神の愛」です。

神はひとりひとりの人間全員を愛しておられます。愛しているからこそ、人間がこの世に生まれて来るのです。

 

ならば、なぜ人間は戦争や天災、病気などでむごい死に方をしなければならないのでしょうか?

神に愛があるならば、なぜこのように神は人間を見殺しにするのでしょうか?

 

一見矛盾しているように見えますが、「真の愛」ゆえの厳しさでもあります。

これについてはまた書かせていただきたいと思います。

 

読んで下さってありがとうございました。 

 

聖書を開いたら魂が飛び出した!? 魂の慟哭が教えてくれたこと

f:id:godwasword:20201008095813j:plain

教会には行ったことがない

私は「教会」という所には、一度も行ったことはありません。

「牧師」や「神父」と呼ばれる人には一度も会ったこともありません。

 

だけど、気がついたらクリスチャンとなっていたのです。

不思議ですよね。

 

クリスチャンとは、イエス・キリストを信じて受け入れる者のことです。

 

私はそれまでの人生において、神仏に関心を持つことは一度もありませんでした。

それどころか、そのような宗教じみた思想を軽蔑していました。

 

単なる好奇心で、私が「命のクリニック 」で魂の目を開いてもらったのは40歳の時。

その時はどうってことはなかったけど、日を追うごとに引き寄せられていくものがありました。

 

それは「聖書」です。

 

聖書との出会い

聖書は、もちろん読んだこともないし、手に取ったことすらありませんでした。

 

だけど気になって仕方がない。

ある日、図書館で児童向けの英語版聖書を借りてきました。

聖書の不自然な日本語に抵抗があったので英語版にしました 。

それと児童向けなら内容がシンプルでよかろうと思ったからです。

 

私は自宅でぼんやりと、絵本に近いその聖書を眺めていました。

文字を読むのもおっくうなので、粗末な衣服をまとい、弟子と共に歩いているイエス・キリストの絵を見ていました。

 

魂が飛び出した!?

その時、驚くようなことが私自身に起こったのです。

みぞおちのあたりから、突然「ボガッ!」とした激しい衝動が湧き上がり、それが喉を通して登ってきて、口から抜けると同時に「ワーーーッ!!」と大声で泣き叫んだのです。

 

涙がボロボロとこぼれ、床をのたうちまわり、泣いても泣いても衝撃的なエネルギーは終わりませんでした。

 

全ての感情を丸めた爆弾が、次から次へと大爆発を起こしているような感覚です。

 

私は自分の身に何が起きているのか、なぜ号泣しているのかわかりませんでした。

そもそも聖書を眺めていただけですから。

 

この不思議な症状は20分ほどで終わりました。

 

「今のは何だったんだ?」

「確かに私だけど、私じゃない・・」

「もしかしてこれが魂なのでは」

「そうだ!これが魂という存在なのだ!」

 

私は、その日初めて自分の霊魂というものに遭遇したのです。

 

魂とキリストの関係

その後「命のクリニック」でいろんな霊的体験を重ねるうち、私は次の確信に至りました。

 

  • 全ての人間の魂はイエス・キリストを知っている。だが、長い間神と離れ、罪(業)を重ねているうち、キリストを忘れてしまった。

 

  • キリストとは神の分身みたいな存在。役割は違うけど、キリストと神は一緒。キリストは愛のエネルギーそのものなので、人間がその波動に触れると、喜びと優しさに包まれてうれし泣きをする。同時に魂は癒されて元気を取り戻す。

 

  • 肉体(脳)という顕在意識が魂を妨害するから、人間はキリストのことがわからないし、信じない。人間は常に顕在意識が優位となっているから、ほとんどの人間の魂は眠ったまま。魂は潜在意識よりもっと深い、超自然的次元に存在する。魂が眠っているということは、人間側は死んでいることとほぼ同じ。

 

  • 人間の魂だけではなく、あの世の悪霊たちもみんなキリストを知っている。知っていながら、人間を悪に導かねばならぬ理由がある。

 

このような経緯で、私はいつの間にかクリスチャンとなっていました。

 

キリスト教という教えを学んだわけでもなく、誰かに信者になるよう誘われたわけでもなく、 人生のどん底で何かにしがみつきたかったわけでもありません。

 

「命のクリニック」で開眼した私の魂が、私にキリストの存在を教えてくれたのです。

そして魂のベクトルは、キリスト(神)に向いていることがわかりました。

これは信じないわけにはいきません。

 

私たち一人一人は、自分の魂がキリスト(神)に直接アクセスできるように設定されています。

 

神にアクセスするということは、神のインスピレーションで生きるということです。これは人間にとっては最高の幸福となります。

 

どんなに辛い人生でも、神が共にいて導いてくれるのですから、魂は意気揚々として乗り越えていくのです。

 

神とアクセスするためには霊的エネルギーが必要です。

このエネルギーを提供してくれるのが「命のクリニック」です。

 

しかし神とアクセスしても、人間側に信じる力がなければすぐに交信は途絶えてしまします。この信じる力を「信仰心」と呼びます。

 これは人間側の努力次第です。

 

これからも人間と神との関係について書かせていただこうと思いますので、読んでくださるとうれしいです。

 

 

59歳の私 デジタル怪獣に太刀打ちできるのか いやもう限界・・・

f:id:godwasword:20201006152401p:plain

83歳になる実家の母から電話がありました。

同居する兄から「これからはこれを使え」とクレジットカードを渡されたらしく、初めてのことなので使い方がわからず不安だとのこと。

高齢者にとって馴染みのないものはとても不安に感じるのです。

母は携帯電話(ガラケー)は使えますが、パソコンは使えません。そばにいて教える人もいなかったし、使う機会がないまま年をとってしまいました。

 

パソコン

かく言う私も初めてパソコンに出会ったのは、80年代の終わり頃だったと思います。

私の20代後半頃です。昔のブラウン管テレビのように、大きな箱のような型でした。

会社に数台しかなくて、社員が交代で使用していました。インターネットはまだありませんでした。

90年代半ばになると、社員一人一人がそれぞれ自分のパソコンを使って仕事をするという業務体制が広がっていきました。

 

その後インターネットの普及により、仕事の幅が広がりかつスピーディーに処理できるのでとても便利になりました。

パソコンに向かっていれば仕事をしているように見えたので、インターネットはさぼりツールにもなりました。(私にとっては)

 

余談ですが、40歳の頃、仕事中ネットサーフィンをしてサボっている時に見つけたのが、当ブログで紹介している「命のクリニック」です。

 

時代は戻りますが、私が社会人となった年(1984年)、最初に入社した会社にはもちろんパソコンはありませんでした。

電話は一課に一台

OA機器と呼べるものはコピー機だけだったと思います。

FAXはまだありませんでした。

重要書類はタイプライターで作成していたはずです。

その後、持ち運び可能な「ワープロ」という機器が登場して大流行しました。

しかしパソコンの登場によってあっという間に消滅しました。

 

ポータブル音響機器

80年代初頭、若者は持ち運び型の大きなラジカセやウォークマンで音楽を楽しんでいました。

誰もが大量のお気に入りのカセットテープを持っていたのではないでしょうか。私も持っていました。時々、実家のゴミ部屋からポロッと出てきたりします。

カセットテープからCD、そしてMDの爆発的な流行のあと、iPodのようなデジタル機器の時代が来たところまでは知っているのですが、今はどうなっているのでしょうか。

通勤で音楽を聞くことはなくなったので、その辺りの事情はさっぱりわかりません。皆さんスマホで音楽を聞いているみたいですね。

 

デジタル怪獣

30代、40代、50代と、デジタル化の波は私の脳内にも押し寄せ、これから迎える60代の脳は、このデジタル怪獣を迎え撃つことができるのでしょうか?

Go To イートのポイント付与とか、聞いただけで「面倒くさい!」と思ってしまうタイプなので。

しかし、仕事ではそんなことも言ってられず、会社のIT化が進み、各種システムの導入によって覚えなきゃならないことが増大しました。IDやパスワードがたくさんあって、どれがどれやら、わからなくなります。

 

会社も何をトチ狂ったのか、私のようなアナログおばさんにウェブサイトの管理を任せているのです。作業自体は業者がやってくれるのですが、最低限のネット知識がないと業者とのやりとりすらできません。

 

情報の置き場所がどんどん複雑になり、どこへアクセスすればどんな情報があるのか、そんなことがだんだん憶えられなくなってきました。

在宅ワークで一日中パソコンと格闘していると、頭がヒートアップしたままで眠れなくなります。

そんな私に比べて、職場の若手社員はどんどん新しいことを吸収し、知識や情報を物凄い速さでアウトプットしています。

システムエンジニアだったアラフィフの友人は、「大学で先端技術を学んだ若い人たちにはもうついて行けない」と言って、デジタルの世界から足を洗いました。

 

仕事はデジタル、学校の授業もデジタル、買い物もデジタル、読書もデジタル、お葬式も結婚式もデジタル、墓参りもデジタル、飲み会もデジタル・・・

コロナによって仕方ない面もありますが、変な時代になったもんです。

 

この1年で、人間はこのデジタル怪獣にますます強く支配されるようになったと感じます。

 

f:id:godwasword:20201006152347p:plain

引退と老後

60歳定年というのもうなづけます。

私は57歳を過ぎた頃から、急激に記憶力が低下してきました。

「まだまだ」と思っていても、確実に脳は劣化しています。感情面でも、意固地、人の意見を聞かない、すぐに怒る、思い込みがひどくなるなど、コミュニケーション力も劣化していきます。私もそんなところあるなあ・・・

 

来年、私は60歳になります。派遣社員なので定年はないのですが、そろそろ引退したほうがいいかなと思います。

引退後、もし仕事をするならパソコンを使わない農作業のような仕事をしたいなと思います。

 

 

「E.T」を38年ぶりに観ました 子供に戻りたい。。。

 

f:id:godwasword:20201003185241j:plain

昨日テレビで「E.T.」を観ました。38年前にボーイフレンドと一緒に劇場で観たことは覚えているのですが、ストーリーはすっかり忘れていました。

突拍子もない話なのに、非現実的な話なのに、子供が主役なのに、いい年をした私はつい引き込まれてしまいました。

理由の一つは、バックに流れる音楽です。とにかく音楽がよく流れる映画です。感動的なシーンをオーケストラがドラマチックに盛り上げるのです。

これが私の単純な心の琴線にバシバシ響きまして。

ついつい何度も涙をにじませていたのです。

 

音楽

美しい音楽は魂を震わせます。

天上界では神を賛美するための楽団があって、常に美しい音楽を奏でているそうですよ。

楽家はインスピレーションでその旋律をキャッチするんですね。

神の世界から降った音楽だから、それは美しいに決まっています。

何年経っても色あせることなく、人間の心と魂を慰めることができると思います。

ちなみに「マーラー 交響曲 第5番 アダージェット」を聴きながらこのブログを書いています。

「この曲に包まれて、このまま死んでもいいわ〜」と思うほどきれいな曲ですね。

 

子供

もう一つの「E.T.」の魅力は、純真と邪悪が絡み合うことです。

主人公の少年と異星人のETが、汚れのない無邪気さを象徴していました。

一方、ETを無理やり捕らえて研究の対象にしようと躍起になる大人たちは、欲得と見栄にまみれた汚れた世界。

その対比を強調することで、純粋な愛の尊さが際立つのですね。(ちょっと大げさですけど)

 人間は誰しも自分の中に清らかな自分と、ドロドロに汚れた自分がいます。そうでなければ、この映画を観ても誰も感動しないでしょう。

 

恥ずかしい自分

もちろん私の中にも汚らしい自分がいます。どのように汚いかは、恥ずかしてくとてもここに書けたものではありません。死ぬ時も、この恥ずかしさを隠したままあの世へ行くことになります。

 

恥ずかしさとは、神の前における恥ずかしさです。死後、魂が全てを見通す神の前に立った時、あまりのまぶしさに魂は狼狽し、神から隠れるためにコソコソと暗い世界へ逃げるのです。

 

もし 何もわからない無知な子供だったらどうでしょうか?自分のことが恥ずかしいなどと思うでしょうか?堂々と神の前に立ち、無邪気に神に近づいて行くのではないでしょうか?

 

あの世へ行くと、隠していた全ての自分の業(ごう)がビデオを見るように目の前に展開されるのです。そのショックで、魂は暗闇へと落ちていくのだそうです。

閻魔様に落とされるのではなく、神様に落とされるのではなく、自分で落ちて行くのです。

 

最近年をとったのか、無邪気だった子供の自分に戻りたいと思うようになりました。